1、明治維新以前
明治維新以前の藩幕体制における訴訟手続をみると、訴訟できるのは本人に限られ、しかも家主・名主・五人組(差添人という)などを同伴して出廷し、代理人は許されなかった。そして当時の裁判は、出入筋(民事訴訟)と吟味筋(刑事訴訟)とに分かれ、訴状は「目安」といい、それを受けて被告(人)を召喚する呼出状を差紙といった。
上記のとおり訴訟は本人が差添人とともに出頭するのが原則だったが、例外的に老幼者・病人である場合は代理人の出頭が許されたので、いつの頃からその制度を利用して大店で番頭・手代などを持つ者などは、公事師(原告または被告から報酬をもらって、その親族・下僕などと称して代人として訴訟手続をする者)を雇って訴訟必要書類の作成および訴訟手続全般を任すようになった。
また訴訟を掌る奉行所は、司法と行政が未分化であって、いわば都道府県知事が、裁判官・警視総監のような職能を兼ね備えていた。
2、明治維新以後
この裁判制度は、明治維新を迎えても同様なものが受け継がれていたが、新政府は明治4年7月9日に司法省を設置するとともに、明治5年4月27日江藤新平を司法卿に任じると、彼は旧弊然とした司法制度を近代化するために改革に取り掛かった。
江藤司法卿は、就任直後「司法省の方針を示すの書」を執筆し、司法省の職掌は、公正・迅速・簡潔な民事裁判をすることと悪人は罰するが決して冤罪は出さない刑事事件を行うと公言した。そして江藤の指揮下お雇いフランス人法律家のブスケの協力をえて我国最初の裁判所構成法ともいうべき「司法職務定制」が明治5年8月3日に誕生した。これには、社会的弱者の権利擁護を図り、貧者と富裕者とを法の下では平等に扱わなければならないという江藤の理念を具現化するため証書人・代書人・代言人の職制が定められた他、全国の裁判事務を司法省に統合集中させ、裁判権を府県から接収して裁判所に移管させようとする目的があった。
【明治6年1月 大阪府布告】
壬申367号を以って布達致し候通りこの度裁判所設けられる。
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これは、明治16年の甲府始審裁判所の判決言渡書(3丁6頁)
※この当時、判決文のような公用文にも、俗字・略字はもとより江戸期までの書面によく見受けられる「コト」「トキ」の合略仮名も併せ使用されていたことが認められる。
※明治23年3月裁判所構成法の誕生により、治安裁判所は区裁判所に、始審裁判所は地方裁判所に呼称変更されたが、控訴院と大審院には変更はなかった。 (裁判所構成法施行条例第1条)